月がほほえむから

2.なんてラッキー?

「あの、あたし、田辺日向子っていいます。国立○大の3年で、法学部です。住んでたアパートが全焼しちゃって...学費は奨学金で何とかしてたんですが、生活費までにまわらなくって...その、今はぜんぜん引っ越しする余裕もなくって...う、嬉しいですっ!!」
あたしは涙をぽろぽろこぼして女将さんに感謝の意を伝えた。興奮すると泣き出してしまうんだ、あたしって...
「そうかい、大変だったねぇ。で、ひなこちゃんの親御さんはどうなさってるんだい?」
女将さんがエプロンをはずしながら落ち着きなさいとジュースを出してくれた。
「田舎に母が居ます...うち父親が早くになくなったんで母一人、子一人なんですが、母が去年過労で倒れてからはあんまり働けなくて...20すぎたからもう母子家庭手当ももらえなくなって...それで、あたし大学辞めて田舎に戻ろうとも思ったんですが、母が、夢は諦めるなって...あの、あたし司法試験受けたいんです。大学の勉強だけじゃ難しくって、みんなが行ってるような専門学校に行く余裕なんてないから、自力で勉強してるんですけど...時間がどうしても無理きかなくて、それでバイトもあんまり出来なくて、きりきりで生活してたんです。だから引っ越し費用とか、手持ちのお金とかも...」
「ああ、もういいから、泣きなさんな。よし、わかったよ。あんたはココで住み込んで働きながら勉強してその司法試験に受かるようにがんばりな。なに、気は使わなくっていいよ。ここはあたしと、息子と孫の三人暮らしだ。部屋も空いてるから、気にせずに使っておくれ。」
女将さんがどんと胸を叩いて任せておおきと請け負ってくれた。

食堂には、今は誰もいない。厨房にいた息子さんは子供を迎えに行ってくるよと言って前あわせの調理用の白い作業着を脱ぐと店を出て行った。ポロシャツにジーンズで、背が高い息子さんは調理用の帽子を取るとけっこう若々しくて、いったい幾つなんだろうなんて思ったけど、しばらくすると園児の制服を着た男の子と一緒に帰宅した。
「ばぁちゃん、ただいま。」
「圭太、おかえり。」
「ね、きょうからいっしょにすむおねえちゃんがいるって...ほんと?」
女将さんの元に駆け寄ってきた男の子は目がくりくりで、子供なんて別に好きでも何でもないあたしが見ても『カワイイ』男の子だった。黄色い帽子を取ると少し栗色のさらさらの髪、眉がきゅっと上向いていて、もしかしてお母さん似かな?そんなに息子さんとは似てないような気がした。そこそこ整った顔した息子さんだけど(名前は宗佑さんって言うそうだ。女将さんがそう呼んでたから。)奥さんはすっごくきれいな人だったんじゃないかな?その男の子はあたしをみてちょっと期待はずれのようにため息をついた。
なんでこんな小さい子にため息つかれるわけ??
「そうだよ、この人、田辺日向子さん。椎奈ちゃんが使ってた部屋を使うからね。それと明日っから圭太の送り迎え頼もうと思うんだけど?」
女将さんに言われて、その男の子はまたあたしの方をむき直して思いっきり笑った顔を見せた。
「ばあちゃん、このおねえちゃん、ちょっとたよりなさそうだけどいいの?」
あ、あたしが??小中高と学年主席を維持してガリ勉だのくそ真面目だの貧乏人だのとさんざん言われてきても担任からはしっかりした子と言われてきたのに?なんで?
あたしは店内にある鏡に目をやった。大きな鏡には下に三浦工務店と名前が入っている。そこに映るあたしの顔は、泣きはらした赤い目、ぼさぼさの三つ編み、すすけた顔、汚れたジーンズにトレーナー。きっちりした格好のあたしじゃない...
「しょうがないよなぁ。ま、さいしょはぼくがつれていってあげるからしんぱいするなって、ひなこ。」
え?ひなこ?呼び捨てなの?カワイイ顔して、なんか言ってることが...
「圭太、またそんな言葉の使い方して!郁太郎のマネなんかするんじゃないよ。」
「へへっん、おれはでぇえく(大工らしい...)になるんだい!」
後で聞いたんだけど郁太郎っていうのは宗佑さんの幼馴染みで近所に住んでる工務店の息子らしい。
「じゃあ、宗佑、あたしは洗い場かたづけちまうから、その間にひなこちゃんを部屋に通してやんな。それと、物置に置いてる椎奈ちゃんが残していった段ボール、つかっていいか電話しとくから出してやりな。どうやらこの子の鞄の中は教科書ばっかりだよ。きっと他には持ち出せなかったんだね。そうだ、この子○大らしいんだけど、そこっておまえのでたとこだろう?後輩になるんだね〜」
女将さんはそう言ってあたしらを奥の住居の方へ追いやった。椎奈って誰だろうなんて思いながら後を付いていく。
でも、この人って、うちの大学の先輩??だったら、どうして食堂の厨房なんかにいるんだろう。うちって国立で結構レベル高いはずで、就職には困らないはずなのに...
そう聞いて、宗佑さんの方をまじまじ見てしまった。よく見ればすきっとしたしょうゆ顔で、すーっと通った鼻筋や薄目の唇、細く切れ長の目はさわやかで理知的...でも少し垂れてるかな?その分優しげに見える。姿勢がすごくよくって、結構スーツの似合いそうな肩幅してる。
きっと無口なんだろうね、こっちと言ったきり奥に歩いていってしまった。
その代わりにしゃべってくれるのが圭太くんだ。年長さんで来年から小学生だって。しゃべってるとだんだん甘えた口調になってくる。どうやらさっきのべらんめえ口調は覚えたてだったらしい。
「だからね、しいちゃんは、ここであいかちゃんをうんだんだけど、おうちにかえっちゃったんだぁ。でもね、たまにきてくれるんだよぉ〜あいかちゃんは2さいなんだ。ぼくのことけーたんってよんでくれるんだよ。」
幸せそうに話す圭太くん。ちらっと宗佑さんを見たら、信じられないくらい優しげな微笑みで我が子を見ていた。
お母さん、居ないんだよね?あたしと反対か...
でも、もしお父さんがいたら、こんな感じで、暖かく見守ってくれるんだろうか?
「日向子さん?」
「は、はいっ!」
不意に呼ばれてあたしはおたおたと返事して立ち上がった。この年代の男の人に話しかけられるのって苦手だわ...ちょっと低めの声が男の人って感じで...あたしって父親知らないから、男の人って珍しいと言うより慣れてなくって、やたらと緊張しちゃうんだよね。
そしてあたしは思わず見上げる。そう、あたしは156しかないんだけど、この人きっと180は余裕であるわよね?
「ここにあるものは全部使っていいから。それとこの段ボールの中の物もね。」
「はい、ありがとうございます。」
固まって返事すると、また笑われた。笑うとすごく若く見える...
「この部屋、前にうちに住み込んでいた子が使ってた部屋なんだけど、結婚してからもたまに家族で来たりするから、そのまんまにしてたんだ。」
あたしの前のアパートよりきれいかも??あたしは差し出された段ボール箱を開けた。
「うわぁ!」
あたしは空いた口がふさがらないほど驚いて、喜んだ。
火事で焼け出されたあたしにはまるで救済箱だった。下着、ソックス、ジャージ、パジャマ、ヘアブラシやハンカチ、エプロン...ドライヤーまで!!
「いいんですか?使わせてもらっても??」
「ああ、君より少し背が高い子だったけど、サイズは大丈夫だろう?それでもなかったら言ってくれればいいから。お袋のでも、僕のでもないよりましだろうからね。それと、死んだ妻のでよかったら、もう少しあるから...」
そっか、奥さんって亡くなったんだ...
「あの、ありがとうございます。いきなり転がり込んで、こんな、信用してもらって...親切にしてもらって、あたしどうしようかと思ってたんですけど...」
宗佑さんがぽんぽんて頭を叩いてくれた。さっきの圭太くんを見てるみたいな目で...
「あれ?の、圭太くんは?」
見回すともう居ない。
「ああ、圭太は近所の友達の家に遊びに行ったよ。まあ、お袋のいきなりにはもう慣れてるから気にしないでいいよ。君の前に居た子も、店でいきなり倒れて、半年後には出産までしたんだ。君はこれからもがんばって勉強だろ?お袋のこんどの目標はたぶん君の合格だよ。がんばれ。」
そうにこっと笑って部屋を出て行った。
いいひとなんだ...それがすごくわかる。
あたしは期待を裏切らないようにしっかり勉強して、一杯手伝って、がんばる!

もしかして、この状態って、前よりもラッキー??

          

まだまだ進展しませんが、日向子のペースにあわせてゆっくりです。