月がほほえむから

3.新しい生活

「いってきまぁす」
元気な声が食堂の外にこだまする。子供って元気だなぁ...
あたしは昨夜遅くまでやってた課題のレポートを明け方に済ませたにもかかわらず、早朝から、みんなの朝食、圭太くんの準備をしていた。朝ご飯を食べに来る人も多く、女将さんと宗佑さんは朝から仕込みやなんやらで大忙しだ。幼い頃から自炊はしていたので、出来るんならと、家の方のまかないをすることになったのだ。毎日店のメニューじゃ圭太くんもかわいそうだからって。なんか、前の従業員さんがそうしてたらしくって、今朝はあたしが作った卵サンドを圭太くんがおいし〜っといって平らげてくれてた。ヨーグルトを残しそうだったので鼻つまんで食べさせた。だって、一昨日から圭太くんトイレからなかなか出てこれなかったから、やっぱヨーグルト食べなきゃでしょう。

「ひなこ〜はやくいこうよ!」
可愛い声で呼ばれて嫌な気になるはずがないよね。圭太くんと手を繋いで歩き出す。ちょっぴりくすぐったい時間。
子供の手って何でこんなに柔らかいんだろうね。で、帰りはどろんこ触りすぎてかさかさになってたりするの。毎日精一杯遊んで生きてる圭太くんを見てるとあたしもがんばらなきゃって思ちゃうんだよね。
「あっ、いくたろ!おっは〜」
あたしの手を離して駆けだしていく。ご近所の郁太郎さん、宗佑さんの幼馴染みらしい。お父さんと二人で工務店やってて、お母さんはもう亡くなってて、嫁に数年前に逃げられたらしい(近所のおばちゃん談)。ちゃんとすればそれほどひどくないのに、いつも無精ひげで、煙草くわえて、中年の不良って感じ。こいつのせいでカワイイ圭太くんがべらんめえ口調になったり、おっさんのような仕草をしたりするんだ。宗佑さんはどう見ても板さんって仕草は少なくて、上品なんだよね。店で新聞読んでる時でも、足組んで煙草持ってる姿なんかそのままスーツって感じ。この郁太郎さんははっぴ着てはちまきだね。どうみてもお父さんの方がいいはずなのに、圭太くんは郁太郎さんのような、でえぇく(大工のことらしい)になりたいらしく、帰りによくこの公務店に寄らされたりする。
「よぉ、圭太、今日も日向子ちゃんとおてて繋いでいいな。おまえ一人で保育園行ってこいや。その間おれが日向子ちゃんの相手してやるからさ。」
にやにやと品のない...でもこの人が圭太くんのことをすごく可愛がってくれるのはわかってるから。
「やだよぉ!ひなこはぼくといくんだよ。いくたろのとこにおいていったりしたらひなこがなくもん。それにひとりでいったらえんちょうせんせいにしかられるじゃないかぁ。いくたろのせいだっていうぞ?」
いや、泣かないけど...置いていかれても困る。それに園長先生...郁太郎さんや宗佑さんも教えていたらしくって、昔の話をよく聞かされる。郁太郎さんは昔っからこのまんまですっごいガキ大将だったらしい。宗佑さんも今でこそ落ち着いてるけれども郁太郎さんといい勝負の悪ガキだったらしい。まあ、どちらかって言うと知能犯だったけどと園長先生は付け足した。
その園長先生が教えてくれた。
圭太くんのお母さんは元々からだが弱く、圭太くんを産んでから体調を崩してしまい、宗佑さんはそのために勤めていた商社を辞めて、実家にもどり、奥さんと圭太くんの面倒をみたって...
『いいとこ勤めてたんだけどね、最後まで奥さんの側にいてやりたいからって...』
早くからこの保育園に預けられていた圭太くんのことを園の先生はみんなよく可愛がってくれてるみたいだった。

「日向子さんも、住み込んでいらっしゃるのよね?いえね、前に従業員さんだった女の人がよくこうやって送り迎えしてて、圭太くんすごくその人に懐いてて、お母さんになって欲しいって言ってたのに、その人結婚して居なくなっちゃって、その後の圭太くんの落ち込みひどかったから...」
「そ、そうなんですか?あたしはまだ学生で、従業員と言っても住み込みのアルバイトみたいなもんなんです。」
「まあ、そうなの?やだ、ごめんなさい。ひなこさんまだお若いものね、そうよね。」
圭太くんの担任のみずえ先生は29歳の独身で時々探るような質問をされる。圭太くんに言わせると、『おとうさんをねらってる』らしい...まあいいけどね。
あたしはこうやって圭太くんの送り迎えにあわせて大学に通い、家の方の、まかない、洗濯掃除も女将さんと分担して、手が空いたら店を手伝う程度で済まさせてもらってた。大学の授業には響かないし、遅くまでバイトで時間を取られたりしないし、衣食住は完璧だった。自由に使っていいよと差し出された亡くなった奥さんのタンスにはきれいに保存された洋服が並んでいた。いくら何でもあんまり好き勝手できないので、たまに着れるのを探すんだけれども。この服の趣味を見る限りは、ものすごく女らしい人だったんだろうなって...ブラウスやカットソーも優しい色で、スカートもデニムのが一枚あっただけで、あとは柔らかな素材のフレアスカートなど。せいぜい着れたのはそのデニムのスカートとカーデガンやカットソーぐらいで、一枚だけあったジーンズは細すぎて入らなかった。あ、パジャマもネグリジェみたいなのが多くて、着れなかった...
結婚して、子供を産んで、病気になって、そしてこの世から去っていった宗佑さんの奥さんってどんな人だったんだろうか?幸せだったのかなぁ...お仏壇に残された儚げな笑顔を見せる人を時々ちらりと見る。まあ、背に腹は代えられないってことで、洋服代をケチるんだけど、着る前には一応手を合わせて借りることにしていた。


あっという間の年末。
さすがに食堂も31日は休みで大掃除だった。お正月もちょっと長めに5日までお休みらしく、あたしは田舎に帰るお金もなくってとりあえずここで年を越そうと思っていたら、女将さんが『少しだけなんだけど』と言って電車代をくれた。
「これで実家に帰ってお母さんに元気なとこ見せてお上げ。どうせうちは正月に知り合いが泊まりに来てばたばたするから、日向子ちゃんはゆっくりしておいで。」
余分に今まで働いた分だと言ってお小遣いまで...あたしそんなに店手伝えてないのに?家のことして、毎日圭太くんの相手して、夕飯作るぐらいなのに...(お昼は店の物で済ますことが多いから)
「女将さん、ありがとうございます...ホントに女将さんに助けてもらえなかったら、年越せませんでした。」
あたしは思わず涙腺が緩くなる。女将さんの手がぽんぽんってあたしを慰めるように背中を叩くと雨が降ってるから駅まで宗佑さんに送ってもらえと言った。
「いえ、いいですよ、ほんとに...傘あるし。」
実は宗佑さんと二人になるのって未だに緊張するんだよね。優しい人だってわかってるけど、無口だし、大人すぎて...まだ郁太郎さんと馬鹿言い合ってる方が幾分か楽。郁太郎さんは相変わらず店に出入りしてて、最近ではあたしをからかうのが日課になりつつある。お昼の客がはけた時間になっては、やって来て取り置いてあった日替わり定食を食べながらあたしをからかって喜んでるんだから...
「よっ、三つ編みねえちゃん、どうした?鞄なんてもって...」
「郁太郎さん?今日は休みだよ。」
「ああ、わかってる、食べに来たんじゃないよ。これを届けに来たんだ。」
手には正月のしめ飾り、それを見た女将さんが奥から余分に作ったおせちを持ってきた。昨夜あたしも手伝った、何件分かのおせち料理だった。
「はいよ、これ郁ちゃんとこの分ね。しめ飾りついでに付けていっとくれよ。」
そう言われて郁太郎さんは渋々脚立に乗って飾りを付けはじめる。どうやらこの暴れん坊も昔から女将さんと園長先生にだけははかなわないらしい。
「じゃあ、お袋、ちょっと日向子さん送ってくるよ。」
車の鍵を手にした宗佑さんはなんだかいつもと雰囲気が違っていた。
あれ?
あ、ジャケット着て、スラックス履いて、タートルのセーターなんか着てるから全然違って見えたんだ。結構おしゃれって言うかセンスいいなぁって思ってしまう。
「なんだよ、宗佑、久々に決めてさ、デートか?」
「馬鹿言え、日向子さんを駅まで送っていくだけだよ。」
そう言ってあたしの荷物を持とうとする宗佑さんから郁太郎さんが荷物を奪い取った。
「オレが行ってやるよ。」
「え?」
「オレが送っていってやるから、宗佑おまえココに居ろ。」
何言い出すんだろ?この男は...まあ、その方が気が楽だけど?
宗佑さんはしばらく何か言いたそうだったけど、まるで言い出したら聞かない子供に呆れるように車のキーを郁太郎さんにわたして『じゃあ頼む』と言った。



「ははは、びっくりしたか?日向子ちゃん。」
「いえ、別に...送ってもらわなくてもよかったのに。」
「いやな、田舎に帰る前に日向子ちゃんに言っときたいことがあってな。」
「なんですか?おみやげなら買ってきませんよ。お金ないですから。」
「ばーか、そんなこと言わねえよ。あのさ、おまえ前にいた従業員の話はどこまで聞いてる?」
前のって...あたしの部屋を使ってた人のことだよね?
「椎奈さんのことですか?あたしみたいに店先で拾われて、ココにいる間に子供産んで、その後結婚して出て行ったって聞いてますけど?圭太くんもすごく懐いてたって。」
「そっか...」
郁太郎は交差点で信号待ちの間に煙草に火を付けた。
「その子は...椎奈ちゃんはすごくいい子でな、父親の居ない子を一人で産むんだと関西から出てきてたんだ。宗佑はその生まれた子の父親になるつもりで、椎奈ちゃんにプロポーズまでしていたんだ。だから、圭太もすっかりそのつもりで...椎奈ちゃんを母親のように慕っててさ、生まれてくる子は自分の妹だと思ってたんだよなぁ。圭太もまだ幼かったし、母親の記憶なんて全然なかったから、すごく嬉しそうでな、オレは内心よかったって思ってたんだ。その矢先に椎奈ちゃんのカレシってのが現れて、椎奈ちゃんは関西に帰って行ったんだけど...毎年盆と正月に、家族で遊びにくるんだよ。圭太は椎奈ちゃんのことも生まれた愛華ちゃんって女の子も家族だって思ってるから、来てる間はすごく楽しそうでいいんだけどな、帰った後、抜け殻みたいに寂しげなんだ。」
「そうなんですか...」
実際圭太くんの口からなんども愛華ちゃんの名前は聞いている。でもプロポーズの話は知らなかった。
「日向子ちゃん、帰りはいつぐらいの予定なんだ?」
「えっと、圭太くんの保育園が6日からだから5日の夜には帰ろうと思ってますけど...」
「あのさ、4日の夜にしてくんない?3日に来て、4日の夕方には帰っちまうんだよ、椎奈ちゃん達。その後いくらおれが誘っても部屋からでても来ないんだ。おれや宗佑じゃ駄目だろうけど、日向子ちゃんなら大丈夫じゃないかと思うんだ...だめかな?」
ぶっきらぼうな頼み方だけど、郁太郎さんは本当に圭太くんのことが心配なんだ。
「いいですよ、4日の何時になるかわかりませんけど、帰ってきます。」
「ありがとうよ、そのお礼と言っちゃなんだが、いつでもデートしてやるよ。」
「...結構ですっ。」
がははと勢いよく笑った郁太郎さんは最後に真顔で言った。
「ま、そういうことだから。今は日向子ちゃんに頼るけど、これからもそれ以上に期待持たすようなことだけはしないでやってくれ。」
「はい...」
期待って、椎奈さんと同じような?まあ、それだけはないよね。
「今回はおれも黙って指くわえてなんかないしな。ちょっと若すぎるけど、日向子ちゃんかわいいからおれつば付けときたいぐらいだから。」
「はあ?」
あたしは郁太郎さんの方を眉をしかめて見た。何言ってるのよ、この人は...せっかくいいとこあるって感心してたのに?
「ま、それは今度にしておこう、着いたよ。日向子ちゃん。」
あたしは眉をしかめたまんまの顔で駅に降ろされ、田舎に帰った。

郁太郎さんってなんなの?よくわからない...

          

あれれ?郁太郎が??どうなるかなんてあたしにもわからないかも〜〜〜!
だって郁太郎が通図々しく出てくるんだからっ(汗)個性の強い郁太郎登場でした〜