月がほほえむから

8.届かなかった想い


あのあと、散々歩き回ったけれども、行く当てなんてどこにもなくて、夜中過ぎに食堂に戻った。そーっと鍵を開けて裏口から入ろうとした。
「日向子さん...やっと帰ってきたんですね?」
「宗佑さん...?」
「圭太と母には日向子さんがお友だちのところに行ってるって言っておきました。こんな遅くまでどこに行ってたんですか?心配するでしょう。郁太郎も心当たりを探してくれてるはずですので連絡しますね。」
宗佑さんは携帯を手にさっさと連絡を済ませてしまう。
「ああ、郁太郎?うん、帰ってきたよ。今から?もう遅いよ...わかった。」
「あの、あたし...」
「郁太郎、今から来るそうです。心配かけたんだからちゃんとお礼言いなさい。」
「ちょっとまって!何で郁太郎さんなの?あたしが喧嘩したのは宗佑さんでしょう?」
「僕は、日向子さんと喧嘩した覚えなんてありませんよ?」
いつもは穏やかに見える宗佑さんの表情の少ない顔がやけに冷たく見えた。
「...だったらあたしが、どこで誰と何たって関係ないですよね?街で声かけてきた男の人に食事奢って貰って、それからホテルに行っても!それからっ...」

頬が熱かった。
バシッて高い音が耳元でして、痛みが左の頬に走った。
あたしはとっさにその頬を押さえて目の前の宗佑さんを見ると、あたしを叩いた右手をぎゅって押さえて、辛そうに目を伏せていた。
男の人に叩かれたの、初めてだ...
冷静すぎるくらい落ち着いたあたしの思考回路。ううん、飛んじゃったんだろうね、これ以上何も考えられないんだけど、今何が起こってるのかだけはTVのドキュメンタリー番組のように鮮明に見えている。考えはまとまらないけど、今だけは、よく見える。
しばらくして顔を上げた宗佑さんが、あたしの目をじっと見返してきた。
「...日向子さんがそんな子じゃないのはわかってます。嘘はやめなさい...キミには郁太郎がいるんだから、だから...」
声が少し震えてるのがわかった。きっと宗佑さんは誰かの頬を叩いたコトなんてないんじゃないだろうか?圭太くんを叩いたり、体罰を与えてるようなところは見たことがない。いつだって優しい微笑みで話を聞いてやってる。母親の女将さんのこともすごく大事にしている。あたしが来たことで女将さんの負担が減ったことをお礼言われたことがある。『おふくろももう歳だからな...圭太の面倒全部と店じゃ参ってしまう。最近じゃ腰が痛いとかいわなくなりましたしね。日向子さんが来てくれて助かってますよ。』
たぶん、奥さんのコトもすごく大事にしてたんだ。仕事辞めるぐらいだもん、怒ったり叩いたりしたコトなんてなかったはず...
「わかりました...」
あたしの気持ちよりも、郁太郎さんのほうが大切なんだよね?そう言うことなんだろうって前から思ってたけど...これ以上自分の気持ちを表に出しても、それすら迷惑なら、あたしは只の居候、住み込み従業員としての役目だけ果たすようにすればいいんだ。
「これからは気を付けます。もう、本当の家族になりたいなんて言いませんから...けれども今まで通り圭太くんと居させてください。来年の司法試験に受かったらここを出て行きます。それまでに、もし...圭太くんに新しいお母さんとか出来るんだったそれよりも先に出て行きます。だから、お礼だからとかいって何も貰わなくていいです。働いた分だけきっちりとお給料で貰えればいいです。それも住まわせて貰って食べさせて貰ってるんだから最低限でいいです。それと...郁太郎さんのこともあたしが自分の意志で決めます。ちゃんと、前向きに考えますから、もう何も言わないでください...」
泣くのだけは必死で堪えて、そう口にした。
宗佑さんは無言で頷くとあたしの赤くなった頬をちらりと見た。
「すみません、赤くなってる...痛いですか?日向子さん...」
そっと、宗佑さんの冷たい指先が頬に触れる。優しいけれども冷たい指先...
あたしの心臓はそれだけでどくんと跳ねた。のぞき込んでくる涼しい目、辛そうにしかめられる眉。
あたしはいつの間にか、こんなにもこの人のことを...
自覚してももう遅い感情に蓋をして、あたしは大丈夫ですと返事したけれどもその声が微かに震えてしまった。

「日向子ちゃん!?」
がらりとドアを開けて飛び込んできたのは郁太郎さんだった。
「大丈夫だったのか??心配したじゃないかっ!ったく...圭太は『とーちゃんのせいだ』って拗ねまくるし、オレもどこ探していいかわかんなくて焦ったよ...」
「すみませんでした...ちょっと街をうろうろしてただけですから。」
「そうだったのか?変な男いっぱい居るんだから、一人でこんな遅くまで出歩いちゃダメだよ。」
「はい、ご心配おかけしました。お詫びに今度食事付き合いますからまた誘ってくださいね。」
「え...ほんとにいいの??」
「はい...あたしのこと、本気で心配してくださったんですよね?」
「もちろんだよ!」
「じゃあ、また今度...あの、今日は疲れたんでこのまま休ませてください。」
あたしは宗佑さんの方も向いてそう言うと、お休みなさいと言葉を残して部屋に戻った。


部屋の入り口に紙袋がおいてあった。あの時のワンピースとジャケットだった。
『日向子さんの好きな時に着てください。』
そうメッセージがお店のメモで添えられていた。
きっと、あたしを追いかけることもなく、あきれ果てた顔して宗佑さんはこの服を買ったんだ...着てみるとサイズもぴったりで、鏡の中のあたしは少し落ち着いて見れて、このまま宗佑さんの隣に立ちたいと思った。
だけど...
これを着て郁太郎さんとデートに行けば宗佑さんは満足なんだ。
あたしは、その夜貰った服を脱ぎ捨てたまま、布団に頭から潜り込んで嗚咽を堪えて、止まらない涙を枕に染みこませた。



それからは何も変わらない。
あたしは住み込みの従業員で、彼はその店主。
毎朝笑って挨拶を交わし、仕事を言いつけられてそれをこなす。合間圭太くんの入学の準備をして、毎日送り迎えを繰り返す。大学へもきちんと通い、夜は猛勉強。最近仲良くなった同じく司法試験を受けるつもりの子達がイロイロと教えてくれるし、その子達と出掛けることもあった。眼鏡だけは相変わらず縁の太い昔のに戻したままだったけど、心持ち一つで人とのつきあいなんて変わるモノなんだよね。心を開けば友達も出来た。
郁太郎さんとも...
あれから何度もデートしてる。圭太くん抜きで...
食事や、水族館や、行ったことのない様なとこにも連れていって貰った。強引だった郁太郎さんは姿を消して、すごく紳士的に振る舞ってくれるのであたしも安心して出掛けていた。
そりゃあ、たまにそっと引き寄せられたり、手を繋いだり、腕を組んだりとかはあった。
抱きしめられても...ほんとうにそっとで、あたしの身体が緊張するとすぐ離してくれた。あたしが怖がらないように、すごく気を使ってくれるのがわかったし、大学の男の子よりも郁太郎さんの方が十分魅力的だったし、安心も出来た。
これを付き合ってるって言うなら郁太郎さんはあたしの彼氏なんだろうね。


「ひなこ、行ってきますっ!」
しゃきっと出掛ける圭太くんも春から小学生だった。
毎日学校であったことを、夕飯の支度をするあたしに教えてくれる。圭太くんの勉強を見るって言う別の仕事を貰って、日に1時間ほど宿題と予習復習程度の勉強会をしている。
そんな平和な日々が続いている。
今年は司法試験がある。店の手伝いはそんなにしなくていいからとも言われている。頭の中がだんだんと勉強でいっぱいになっていくと自然と郁太郎さんと出掛けることも少なくなっていく。さすがに小学校の催しは宗佑さんと女将さんが手分けして参加していた。
あれから、宗佑さんとも普通に接することが出来ているのは本当によかったとおもう。
あたしは父親が居なかったから、宗佑さんみたいな父親が欲しかったんじゃないかとさえ思える、穏やかな気持ち。
の振り...
そうしていないと、自分が支えられなかったから、だから...
自分の中で消えない思いを、必死で押し殺して言い聞かせていた。

(きっと、試験に受かって、ココを出たら、こんな気持ちすぐに忘れられるはず。側にいるからこんなにも辛いんだ。全然忘れられないんだ...ココを出れば...試験に受かれば...)
呪文のようにそんな言葉を繰り返していた。

          

日向子の気持ちは完全拒否されてしまいました。だけどもずっと側にいなければならない辛さ。
さて今後の展開はいかに!!
このまま郁太郎とくっつくのか??