月がほほえむから

9.想うだけでいい


「日向子ちゃん、最近思い詰めてないか?」
「そんなこと無いですよ...」
そんなこと、あった...郁太郎さんにそう指摘されたけどしらを切った。
18年度から司法試験の受験方法が変わってくる。当分は平行に試験はあるけれど、院にまで行かないと受けられなくなってしまう新制度。あたしにそんな余裕はない。簡単に受かるものなら高校卒業してから受けたかった。でも就職を考えると大学出た方がいいと、奨学金もらえるだけの学力がなんとかあったし、母の薦めもあって無理させて貰った。
だから、余裕なんてない。
こうして郁太郎さんに食事に誘われても頭の中は六法全書を詰めこんだままだったから...
「息抜きさせてあげたかったんだけど、俺じゃ無理みたいだな。」
食事が終わると郁太郎さんはさっさとレシートをもって席を立った。
「もう帰してやるよ。そんでもってさっさと勉強でもするんだな。その代わり無理すんなよ?」
食堂の前まで送られて車を降りる。工務店の車じゃなくって普通のセダン。最近買った車だった。これだったら大学まで迎えに行ってもはずかしくないだろうって...あたしそんなのちっとも恥ずかしくないのに。工務店の車だって、食堂のライトバンだって。
別れ際に聞かれた、ちゃんと寝てるのかって...
大丈夫だよって答えたけど、本当はずっと眠れてない。
全然眠れないんだ...
ココのとこずっと。もうすぐ2次試験がある。ゴールデンウイークを過ぎたらすぐにある。
あと1週間...不安は募るし、もし失敗したらなんて考えると眠れない。


「日向子さん...?まだ起きてたんですか。」
「あ、すみません...起こしちゃいました?」
気分転換にお茶でも飲もうと台所へ来たのだけれども、宗佑さんを起こしてしまったみたいだった。台所の入り口にパジャマ姿の彼が戸口にもたれて腕を組んでこっちを見ていた。
「最近、遅くまでがんばってますが、そんなに寝てる様子もない...身体が持ちませんよ?」
いつもなら一言だけ言って立ち去る場面なのに、今日の宗佑さんはすぐには戻らないみたいだった。
辛いんだけどな...未だに、二人だけで居ると胸が締め付けられてしまう。昼間の誰かの気配がするときなら平気なのに。深夜の冴えた空気の中に宗佑さんの存在を感じるほど身体が緊張する。冷静な意識が崩壊しそうになってしまう。自分の中からあふれ出す思いに未だ蓋しきれないで居るのだから。だから、優しい言葉はかけて欲しくないのに。
「大丈夫です...もし失敗したらって考えると、だんだん寝れなくなって...でも勉強してたら落ち着くんです。」
「寝てないんですね?郁太郎も言ってましたよ。食事してても焦点が定まってないってね。それじゃかえって効率が悪いでしょう?」
「わかってますっ!でも、しょうがないじゃないですかっ!」
郁太郎さんの名前を出されて、あたしは気を高ぶらせてしまった。未だに宗佑さんの口から郁太郎さんのことを出されると腹が立つんだから...
宙ぶらりんな気持ちのまま郁太郎さんに甘えてるあたし。そんな自分が嫌だけど、今は、完全に拒否する気力も持ち合わせて居なかったから、ずっとああやって付き合いが続いている。実際郁太郎さんと居るとすこしは明るい気持ちにもなれる。それに...宗佑さんには絶対にもつことはできない、女としての、思われてる自信って物を感じることが出来るのだから...卑怯かもしれないけど、今のあたしにはそんな自信でも貴重だったのだ。だけどいつもそれを見透かしたような宗佑さんの言動はあたしの神経を逆なでする。
「明日は講義はない日でしたね?」
「はい...」
こぼれそうな涙を堪える。いつだってあたしはこの人の前では感情のコントロールが苦手になってしまう。
「明日の朝は仕事出てこなくていいですから、寝なさい、きちんと。」
「いいんです、寝れないんですから...目瞑っても、お布団に入っても、すごく不安で、気が狂いそうなほど不安で...目が覚めるんです。だから...」
あたしが何言っても平気な顔で流せる人だから思わず言ってしまう。郁太郎さんに言ったら医者にでも引きずって行かれかねないものね。
「やっぱりね...そうじゃないかと思ってました。あんまり寝てる様子無かったですからね。」
そんなこと言って、見てたわけでもないくせに...って、もしかして、見ててくれたの?
「しょうがないですね、じゃあ、これでも飲みますか?」
そう言ってあたしの側まで来ると戸棚のなかの日本酒を取り出した。
「飲むって...日本酒ですか?」
あたしは飲んだことなんて無い。
「僕も眠れなくていっぱい引っかけようと思っていたところだったんですよ。甘いお酒でもあればいいんですが、生憎ないですからね、これで...」
ぼーっと見てたら、腕を引かれて茶の間に移動させられた。目の前に一升瓶とコップを置かれる。
「僕も付き合いますから、少し飲みなさい。」
コップに半分ほど注がれる透明の液体。宗佑さんも自分のに継ぐと一気に煽った。
「え...?」
普段はそんなに飲む人じゃない。強いらしいんだけど...
「日向子さんも飲みなさい。まあ、どうなっても家の中ですから、ちゃんと寝かせてあげますよ。」
久しぶりに見るあたしにだけ向けられた微笑み。あたしは、わたわたとしながらも、ええいっと一気にコップの中の液体を飲み干す。ううっ、なんか匂いにくらっと来た...
「おかわり、下さい。」
あたしは焼け付く喉に空気を送り込みながらコップを差し出した。まさかあたしまで一気に飲んじゃうなんて思ってなかったみたいな宗佑さんはしばらく驚いていたけど、もう一度同じぐらい注いでくれた。『ゆっくりでいいから』と言われて、今度はちびって舐めながら飲む。匂いはあまりかがないようにしておく。
宗佑さんはちょっと厨房の方へ行って、なにやらつまむ物をもってきてくれたみたいだった。
「ちょっとつまんどきなさい。それで少し飲めばぐっすり寝れるはずだから。」
そう言って宗佑さんもまたお酒に口を付けた。いつもと違って片膝立ててグラスをもったままこっちをじっと見てたりするので視線が辛い...。テレビでもつければいいんだろうけど、なんだかこの静寂な雰囲気を壊すのも嫌で、そのままちびちびと飲み続けた。
「これで寝れますか?」
「ええ、たぶん...」
いつもより声まで優しく聞こえてくる。お酒のせいで一気に昇ってきた火照りは顔中、耳まで赤くした。思考力も低下してる見たいで、頭もぼーっとしてきて、ふわふわ浮いてる感じ...今なら何でも言えてしまいそうな気がした。
「あたし...怖いんです、失敗したらどうしようかって考え出すと...寝なきゃって思えば思うほど寝れないし...なのに朝になると身体がだるくって、あたし...」
目の前の宗佑さんの姿がにじむ。あたしって泣き上戸だったのかなぁ...今まで張りつめていた気持ちが決壊しそうになる。がんばれば、結果が出れば、ってすごく気を張ってたから。郁太郎さんがその緊張を緩めようと色々連れ回してくれた日もあったけど、気分は晴れても心はちっとも安まらなかった。だって、がんばる=合格=ここを出て行くだから、あたしはいつの間にか意地になって勉強し続けていたから...
「日向子さんはがんばってますよ。誰の目から見てもがんばりすぎです。これ以上自分の身体を痛めつけちゃいけない。今夜はもう無理せずに、ベストの体調で試験に挑めるようにしなくちゃいけません。ぐっすり休むのが一番の方法ですよ。」
片膝を倒して少し前屈みになった宗佑さんが言い聞かせるような優しい声で話しかけてくれている。それだけでもう閉じたはずの心が開きなおしてしまう。想いが溢れ出てくる。
そっか、あたし勉強だけじゃなくて、この気持ちを抑え込んでいたから苦しかったんだ...
「...宗佑さん、今日は優しいんだ...いつもはちょっとのことでも郁太郎さんのこと出すのに...うれしいなぁ...」
「嬉しい?」
「だって、寝てないって、気がついてくれていた。がんばってるって、認めてもらえた。宗佑さんちゃんとあたしのこと見てくれてたんだ...」
「それは、」
「住み込みの従業員として、でしょ?それでもいいの...家族としてじゃなくても、こうやって心配してもらえてるってことは、家族同様に見てもらえてるってことでしょ?だから...それでいいの。」
「...郁太郎も、すごく日向子さんの心配してましたよ。」
「知ってる。心配してくれてるのも...あは、やっぱり出すんだ...郁太郎さんのこと...わかってる、郁太郎さんが本気だってことも...すごく大事にしてくれてることも...それはね、嬉しいんだけど、でもね...あたしがまだ子供だから、それに応える方法を知らないの...あたしみたいなののどこがいいんだか知らないけど、あたしを奥さんにしようだなんて...でもそんなの怖い...なんでだか怖いの...今優しくしてくれてるのも、それが『目的』なんだよね?いつかあたしがその答え出すの根気よく待ってくれてるのもわかるよ...でももしその答えが『NO』だったらそこまでの関係なんだよね?あたしはそれが怖い...いつそんな気になるかなんてわからないもの。優しくされればされるほど、早く答えを出せって言われてる見たいで...あたし、そんなだから、試験に合格して、早くひとり立ちしたい。誰にも頼らずに生きていけるように早くなりたい。」
「日向子さん...」
「でも...ココに居たいの。圭太くんや女将さんや...宗佑さんの側にいたい...矛盾してるよね?合格したらココを出なきゃいけないのに...あたし、ずっとココにいたい...あたし...」
「...居たいだけ居ればいい。」
「ほんと?」
あたしは重い頭を上げる。ぼやけた視線の先、宗佑さんが近づいてくる気配がした。
「ああ、本当だ。だから安心して、眠りなさい...」
宗佑さんの手があたしの頭をいいこいいこってしてくれて、あたしはなんだかとっても夢見心地気分で、やっぱり宗佑さんが好きなんだって思ってしまった。忘れなくても、隠さなくてもよくて、それでもってココにいていいなら、あたし、なにも無理すること無かったんだ...宗佑さんがあたしのこと従業員扱いでも、ちゃんと見ててくれて心配してくれるならもうそれでいいや...
『大好き...』
そう口にしたかどうかは記憶にないけれども、そのあと眠りに落ちていくあたしはゆらゆら揺らされて暖かい物に包まれたことだけ覚えていた。

朝目覚めるともうお昼近くだった。
いつの間にか自分の布団に連れてこられていた。これが二日酔いと言うのかどうかわからないけれども、少し頭が重い。だけども自分の中の暖かな想いは変わらなかった。
「大好き...」
あたしは自分をぎゅっと抱きしめて、あったかいお布団の中でもう少しだけ目を閉じた。

          

限界まで来ていた日向子はこれでようやく吹っ切れたのか。本格的な試験が始まる。
いかなる結果が用意されているのでしょうか...?
うう、宗佑サイド書きたい〜〜(涙)